「……ヤシ……おい、モヤシ!」
「……ん? あれ? 神田、帰って来たんですかぁ?」



ぼけ眼で見上げれば、
待っていた恋人は少し不機嫌な顔で自分を見下ろしている。



「帰って来たんですかじゃねぇよ! 
 お前いつからここで寝てやがった? 飯は喰ったのか?」
「あっ! そ、そうだ! ご飯っ!」



気が付けば、ギュルギュルと壮大な音を立てて腹の虫が鳴いている。
 

今さっき神田が部屋に戻ると、幼い白い恋人が、
自分のベッドですやすやと寝息を立てていた。
閉じられた瞳からは一筋の涙が流れていて。



「……アレン……」



白い頬を伝う涙を、己の指で拭おうとした瞬間寝ているはずの恋人のお腹からは
グゥグゥというロマンスの欠片もない壮大なメロディーが聞こえてきた。



「……ったくコイツ、いつから此処で寝てやがったんだ?
 晩飯も喰ってねぇんだろ」



大きな溜息を吐きながら熟睡中のアレンを起こすと、
食事をしてくるように促す。
このままここでアレンの腹の音を聞いている気にはならなかった。



「わ、わかりましたっ。ちゃんとご飯食べてきますから、
 だから、僕に黙って絶対何処にも行かないでくださいよ?
 ずっとキミのこと探してて、お腹が空いちゃったんです!
 だから、ちゃんと此処で待ってて下さい」
「ここは俺の部屋だ……何処へも行かねぇ。わかったから、早く行け!」
「はい。じゃあ、行って来ます! ホントにホント、絶対ですからね!」



何度も念を押して、嫌そうな顔をする神田を尻目にアレンは食堂へと駆け出した。
 

途中で時計を見ると、時間は既に夜の8時を回っている。
さっき神田を探して部屋へ行ったのが昼過ぎだったから、
自分はかなり長い間、神田の部屋で寝こけていたことになる。
だがふと気になったのは、その間、神田が何をしていたかということで……。

 

───また、何処かで鍛錬でもしてた? 
 でも、任務で疲れて帰って来てるのに…そんなことするのかなぁ?
 ま、生真面目な神田のことだから、わかんないけど……。

 

考えながらアレンは食堂へ行き、厨房のジェリーに山のようなオーダーをする。
 

相変わらずの旺盛な食欲っぷりに誰もが感嘆の声を漏らす中、
当の本人は一刻も早く神田の部屋に帰るべく、
超特急の速さで目の前の山盛りの料理の皿を空にしていった。


せっかく久しぶりに会えたというのに、
空腹に負けてこうして食事を摂っている自分が少しだけ情けない。
 

神田に促されたからといえ、
せめてお帰りなさいのキスぐらいしてくれば良かったと思ってしまう。
あまりの色気のなさに自分で笑えてしまう。



───けど、お帰りなさいのキスっていうのも……ちょっと恥ずかしいかな?

 

食べ物を口いっぱいに頬張りながら、
頬を赤らめ俯く様は、さしずめ一人百面相といった具合だ。
 

二人の関係は恋人同士だと思ってはいるが、
そう思っているのは本当は自分だけで、
神田のほうはただのセックスフレンド程度にしか思っていないのかもしれない。
 

などと、食事をしながら今度は少し自暴自棄に陥ってみたりする。
 

今まで、食事をしているときが一番幸せで、
食べ物を口にしている時は悪いことを考えたりなどしなかった。
人間、変れば変るものだ。
 

今日だって、本当ならもっと早くから会えたはず。
自分が神田の部屋で転寝などしなければ、
きっと今頃は二人で仲むつまじく部屋で抱きあっていたはずだ。
そう、昼間、ちゃんと神田に会えてさえいれば……。

 

────そういえば、神田って任務から帰ってくると、
 いつも何処かへ行くんだよね……。

 
少なくて1〜2時間、多い時には4〜5時間は姿を消す。
任務の報告も終え、怪我の治療をするわけでもなく、
食事をするわけでもなく、一体何処へ行っているのだろう。
 

聞いても素直に答えてくれる相手ではない。
だから敢て聞く事はしないが、そこはやはり好きな相手の行動だ。
知りたくない訳がない。



「今度こっそり後でもつけてみようかな?」
 


アレンは小さく呟きながら、最後の一皿をご飯粒一つ残さず綺麗に片付けた。
ご馳走様と言いながら慌てて席を立つと、
駆け足で神田の待つ部屋へと向かう。
 

早く神田に会いたい。
会って、神田がいなかった間のこととか、
神田自身のこととか、色々と話がしたい。そう思うと気ばかり急いてしまう。
行く道すがら色んな人に声をかけられたが、
ちょっと急用があるからと上手くごまかしてすり抜けた。
 

そんな中、途中でふと階段を階下へと降りる黒い影を視界の端に捉える。



「あれ? ……神田?」



あれほど待っているように言ったのだから、
神田がこんな所にいるはずがない。
さすがに初めは見間違いかとも思ったが、
好きな相手を見間違えるとも考えられない。

 

───もしかして……?

 
さっき食堂で考えていた、自分の知らない場所へでも行こうとしているのか。
だとすれば、これはいいチャンスかもしれない。
アレンは自分の気配を消しながら、密かに神田の後をつけてみることにした。



 


神田は、アレンが食事をしに食堂へ向かったのを確認すると、
大きな溜息を一つ吐いて自室のベッドへ腰を下ろした。
 

最近はホームに帰って来ても、一人でのんびりできる事など皆無に等しい。
以前からラビやコムイの好奇心の対象になる事はあったが、
最近はそれにアレンのおしゃべり攻撃が加わったからだ。

 

───ったく……何だっつーんだよ。

 
心の中で愚痴をこぼし、うざったいと顔を顰めてみるものの、
既にアレンの煩さに慣れてきている自分がいた。
 

今まで自分のテリトリーの中に他人を入れるなど考えられないことだったのに、
アレンが部屋で自分の帰りを待っていたとしても、
それが当たり前のように感じてしまう。
 

ましてや、今日のように自分のベッドでアレンが寝入っている姿を見て
安心してしまうなど、彼としては世も末だと自覚せずにいられない。


さっきまでアレンが寝ていた自分のベッドに徐に横になり、
無機質な天上を眺めると、今まで居たはずのアレンの残り香が、微かに鼻を掠めた。
 

子供並の体温の高さなのか、アレンの横になっていた部分が
まだぼんやりと暖かかった。



「チッ……勝手に人のベッドで寝やがって」
 


大仰に文句を言ってみたところで、何がどう変るわけでもない。
仕方がないので、アレンが食事を終えて帰ってくるまで
のんびりと待つ事にした矢先のこと。 
 

ふと、部屋の中に鎮座する大きな水時計の中の、
大切な蓮の花に目をやる。いつも部屋に戻れば一番先に確認するもの。
その蓮は、大事な『残り時間』を示す唯一の徴だった。
 

つい数日前にこの部屋を出る時よりも、明らかに何かが違っている。


 
「……花びらが……また……」



 大切に慈しみ見守ってきた蓮の花弁がまた一枚、
散っては水底に落ちていた。



「……くそっ……」



無意識に顔を歪めて、小さく舌打ちをする。
唇を噛み締め、拳を握りしめながら、神田は何かを考え込んだ。 
 

そして、意を決したように六幻を手にすると、
勢い良くドアを開け放ち、何処かへ向かって歩き出したのだった。


部屋を出て、長い廊下を渡ると階下へと下りる。
どこまでも続くと思われる長い階段を下っていくと、
視界がどんどん暗くなっていく。既にかなり下まで降りてきているのが判った。



『危険区域──立入禁止』



そう書かれた立て札を、まるで見えていないかのように通り過ぎると、
神田はある一室へと足を踏み入れた。


おそらく普段は誰も足を踏み入れないであろう薄暗い密室。
静寂に包まれ、凛とした空気が肌を突き刺すように冷たく染み入る。
 
薄気味悪い雰囲気とは逆に、
清らかな何かを感じずにはいられない不思議な空間だった。



───ここは……ラビが言っていた立ち入り禁止区域?

 

神田の後を密かに付けて来たアレンは、
明らかに不振な神田の行動を目の当たりにして、
徐々に鼓動が早くなってくるのを自覚した。
 

見てはいけない何かがある。
自分の中の何かが警告を鳴らしていた。
 

だが、その警告よりも、
愛しい人の秘密を見てみたいという好奇が先に立ってしまう。
足を踏み入れた密室の中央には、
巨大な樹木がその存在を誇示するように聳え立っていた。
 

一見針葉樹のようにも見えるが、
その木が普通の針葉樹ではないと判るのは、枝という枝に見事に実った果実だ。
その実のひとつひとつが薄緑色に輝き、
まるで中に何かを宿している生き物のようにさえ見える。


不思議な淡い光を纏った樹木は、
神田が木の下に立つと、まるでその訪問を歓迎するかのように輝きだした。



「……スマン……また来た……」
『……ヨウコソ……イラッシャイ……』



何処からともなく聞こる音が、樹木の囁きの如く響く。
そして神田の囁きと同時に、手にしていた六幻が蒼く輝いたと思うと、
樹木に吸い込まれるかのように一瞬にして姿が消えたのだった。

 


───か、神田っ?


 
思わず身を隠していたドアから飛び出すと、アレンは樹木の前へと走り出した。
だが、そこにはさっきまで居たはずの神田の姿が何処にもない。
 

きょろきょろと辺り一面を見渡してみても、人の気配ひとつしやしないのだ。



「ど、何処へ消えちゃったの?」



アレンは不安に苛まれながら、その場へ力なく座り込む。
「……神田……」



目元に薄っすらと涙を浮かべ、消えてしまった恋人の名を呟く。
すると今度は、そんなアレンに向かって何か囁く声が聞こえてきたのだった。



『……ダレニ……アイタイ?』
「え? だ、誰っ?」
『ダレニアイタイ?』
「誰って……神田だけど……」
『ワカッタ』
 


すると、アレンの左腕にあるイノセンスが蒼い光を放つ。



「……えっ?」
 


イノセンスの光がアレンの全身を包み込み、
身体がふわりと宙に浮いたかと思うと、今度は目の前がまっ黒に暗転する。



「こっ、ここ……どこ……?」
 


まだ暗さに慣れていない瞳を擦りながら目を凝らすと、
そこは長い長い廊下の真ん中だった。
 

廊下の横には沢山の扉があり、その先に別々の部屋が沢山ある。
 

ふと自分の目の前にも大きな扉があることを知ったアレンは、
今度は恐る恐るその扉に手をかけた。
ゆっくり、そしてひっそりとその中に入ると、
其処にはどれぐらいの広さなのかおおよそ見当も付かない
大きな水槽があることに気がついた。
 
 

───あれ? ここ、確か夢で良く見る場所だ……。

 

俗に言うデジャヴ。
意識はあまりしていなかったが、この部屋は良く夢に出てくる場所だった。
確かに知っている気がするのに、何処かが夢と違う。

 

───あ……そうか、夢の中じゃ、
 自分はいつもあの水槽の中からこっちを見てるんだよ。

 

そう判った瞬間、アレンは暗い視界の端に誰かが佇み、
水槽の中を見つめていることを知る。
 

そこに居たのは、紛れもないアレンの探し人……神田だった。
アレンははっと息を飲み、物陰に隠れて神田の様子を伺う。
そこには普段の彼からは想像も付かない、穏やかな表情をした神田がいた。

 

───神田?

 

そして、その瞳の先には確かに誰かがいる。
蒼く透き通った水中からこちらを見つめる姿に、アレンは思わず息を飲む。
透き通るような白い肌。白銀の髪。灰白色の瞳。
水槽の中から神田をみつめ、嬉しそうに微笑むその顔には
不思議と良く見覚えがあった。

 

───えっ……ボ、ボクっ?


……そう。
水槽の中を漂いながら、硝子越しに神田を見つめているのは、
紛れもないアレン自身だった。
いや、正確にはアレンにうりふたつの『人魚』だった。



『ユウ、どうしたの? さっきも来てくれたばかりじゃない?』
「いや、少し気になることがあったモンだからな」
『……気になること?』
「いや、なんでもない。お前が元気なら…それでいいんだ」
『……うん。元気だよ? ユウの顔を見れればどんどん元気になれる。
 今回は3週間も任務に出たまんまだったでしょ? 
 キミに限って間違いはないって判ってても、
 少し心配しちゃったよ。任務、大変だったの?』
「何てことはねぇ。少しファインダーがドジってな。
 時間喰っちまっただけだ……人の心配するぐらいなら、自分の心配してろ」
『フフフ……まったく、相変わらず手厳しいなぁ』
 


はにかみながら笑う人魚につられるように、神田も穏やかな笑みを浮かべる。



「今回も……あの人には会えなかった。すまん」
『そんな…いいんだよ。別にボクはこのままでも……』
「良い訳ねぇじゃねぇかっ! 思ってもないこと口にすんじゃねぇ! 
 俺はお前を助ける。
 そのためにはどんな事だってする。だから待ってろ!」
『……うん……有難う……いつかキミと一緒に、また任務に出かけたいな。
 キレイな湖とか、緑豊かな草原とか、世界中を一緒に旅してみたい』
「ああ……必ずな」
『うん』
「だから弱気なこと、考えんじゃねぇぞ」
『うん』
「どんな奴と戦おうが、俺はお前より先に死んだりしねぇ。
 だから心配すんな。会いに来るのが遅れたら、コムイにでも事情を聞けばいい。
 ま、おおかた他の奴のミスで帰るのが遅れてんのがオチだがな」
『うん……そうだね。じゃ、余計な心配しなくて済むように、
 暇潰し用の本でも借りてきてよ?』
「ああ……今度、ラビにでも聞いて、面白い本を探してきてやる」
『うん。ヨロシク』

 

絶えることのない会話。穏やかな笑顔。
自分が望んで得ることの出来ない恋人の姿がそこにあった。
 

アレンは目の前の光景が未だ信じられずにいた。
ここは一体何処なのか。
そして目の前で神田と楽しそうに話している、自分そっくりの人魚は誰なのか。


なけなしの頭を振り絞って考えてみたところで、
容易に答えが出てくるわけもない。
 

夢。そう、きっとまた何かの夢なんだ。
そう考えを紡ぎだそうとした瞬間、無残にもある一つの答えが
アレンに突きつけられようとしていた。



「じゃあ、アレク……またな……」
『うん、また来てくれるのを待ってる』



アレク……?
 

神田の幼友達で、イノセンスの適合者で、エクソシストにはなれず、
その昔教団から姿を消したはずの人物。
ラビの話ではもう死んでしまったはずではなかったか。


ある一つの推測がそこには成り立った。
イノセンスの適合者でありながらもエクソシストに成れなかった者たち。
そのイノセンスが千年伯爵の手に落ちることを恐れた教団が、
保有者たちを監禁している。


廊下の先々にある扉は、その保有者たちを個々の状況に合わせて収容した部屋、
要は牢獄なのだ。


この間ラビに聞いたばかりの恐ろしい現実が、
いまこうしてアレンの前に突きつけられようとしていた。
 

───酷い……。

 

寄生型の適合者の場合、適合者が上手くイノセンスをコントロール出来なければ、
そのイノセンスが相手をどんどん侵食してゆく。
侵食の形は人様々で、酷い場合はおおよそ人間としての原型を留めない。
 

自分も初めてイノセンスを発動したとき、
その力の大きさに思わず自分を見失いそうになった。


 あの時の恐怖が脳裏を掠め、アレンは思わず身震いをしてみせた。



「じゃあ、彼が……アレク……」



そう悟った瞬間、アレンの中でもう一つの別の感情が浮上する。
理由は良くわからないが、自分と瓜二つのアレク。
神田は自分と会う前からアレクを知っていて、
こうして彼に会いにやって来ている。
 

ということは、もしかして神田が本当に愛しているのはこのアレクなのではないか。
ひょっとして、アレクに似ている自分は、
今までその身代わりとして彼に抱かれていた?
 

任務が終わってホームに帰ってくるなり、
神田は彼に会うためにいつもここにやって来ている。
神田が一番に会いたいと思う相手は自分ではなく、紛れもなくこのアレクなのだ。
 
 

───どうりでいくら探しても、見つからない訳だよね。


 
認めたくない、だがおそらくそうであろう真実を目の前に曝け出されて、
アレンは吐き気にも似た嫌悪感を感じた。


神田の心は自分には向いていない。
自分はあくまでも、大切な誰かの身代わりに過ぎなかったわけだ。
 
悲しすぎる現実に、泣こうと思っても涙すら出てこなかった。

 

───ハ……馬鹿だ……僕。
 何処か遠くへ……逃げ出したいよ。

 
そう思った途端、左手のイノセンスが淡く光る。
 

気が付くと、アレンはさっきまで居たはずの部屋から、
誰も寄り付かない教団の屋上へと、いつの間にか移動していたのだった。














≪あとがき≫

こちらは2007年冬コミ新刊『人魚の恋とピエロの涙』のプレビューです♪
本誌はざっと110頁越えになりましたvv

さて、人魚に遭遇したアレン。
このアレクという人魚は一体何者なのか?
そしてまだまだ色んな謎が巻き起こります(*^ ・^)ノ
神アレシリアス度とエッチ度ボリュームアップです♪
気になられた方は、是非オフ本のほうもお手にとってご覧下さいvv





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人魚の恋と道化師の涙   4 

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